月の裏側

行き場を無くした思考の末路

長い長い、一人相撲

 

 

こんばんは、月見です。

最近、ちょっと嬉しいことがありました。

というのも、ずっと悩みの種だった議題に決着がついたのです。

もっとも、その内容が完全な一人相撲でしたので、周りからすれば実にどうでもいい話なのですが。

 

ただ、ここは言うなればそういうことを書き出す場所なので。

長きに渡る一人相撲、その顛末。吐き出させていただきます。

 

 

 

 

百合が苦手だった、という話

 

僕は、百合というジャンルが苦手でした。

ある時期から流行り始めて以降、ずっと。

念の為言っておきますが、同性愛自体に対する嫌悪感や差別感情があった、という訳では断じてありません。

 

ただ、最初に見かけた時から、単純に自分の感覚に合致しない感じがありました。

食べ物の好き嫌いや色の好き嫌いのような感じで、明確な理由のない、「合わないから」としか言いようのない苦手意識でした。

 

見た目で好きだな、と思ったキャラクターが「そういう」キャラクターだったとき。

また、そこまで直接的な描写はなくとも、特定の同性キャラクターと親密に描かれているとき。

好きになった作品の、好きなキャラクターを扱った二次創作を見るのが大好きだった僕は、しばしば困惑しました。

 

この不一致感をどうするべきか。

中高生の頃はまだ、倫理観が未成熟だったからか、「嫌い」と断定していた事もありました。

しかし、僕は元々人口の少ない、マイナーなジャンルを好むタイプのオタクだったので、自分の好きなジャンルを貶されたときのことを思うと、自分に理解出来ないというだけの理由で嫌ったり、貶したりするのは違うと思いました。

 

しかし、そうは言っても何とも言えない理解出来ない感覚、好きになれないという事実はそこにあります。

それに、単純に作品のクオリティという面で見たとき、百合というジャンルにはかなり高いクオリティの作品が多く、その点は当時の僕でも認めざるを得なかったのです。 

 

f:id:Tsukimi334:20181008134155j:plain

 

だから僕は、この感覚を「苦手」と表現することに決めました。

どうにも好きになれないし、ともすると不快感を感じる。

でも、同じオタクとしてどんなジャンルであれ「嫌い」と断じたくはない。

それ故の妥協案が、この「苦手」という表現でした。

 

実際、それで自分の心を納得させることは出来ました。

後は、摩擦が起きないよう、百合というジャンルを徹底的に回避するだけ。

接触しないことこそが、最も安定し、平和的に解決する方法だと考えていました。

 

実際、これで大体の状況は何とかなりました。

このスタンスでいけば問題ないと、考えていました。

 

そう。あの作品に出会うまでは。

 

 

 

出会ってしまった、あの日

 

ラブライブ!

 

僕がラブライブに、μ’sに出会ったのは、確かアニメ2期が放映されている最中だったと思います。

大学の帰りに秋葉原SEGAに寄ることが日課になっていた僕は、SEGAエスカレーターを上る際に見えるポスターをぼーっと眺めていました。

 

f:id:Tsukimi334:20181008122120j:plain

(3rdのロゴはなかったと思いますが、絵柄は間違いなくコレでした)

 

そのうちの一つに、No Brand Girls衣装のμ’sが映ったポスターがあったのです。

妙に目を引くそのポスター。何度も見ているうちに、その姿が目から離れなくなって。

試しに曲を聴いてみようと動画を調べたら、「夏色えがおで1,2,Jump!」が見つかりました。

 

f:id:Tsukimi334:20181008122359j:plain

 

その時の衝撃は、今でも忘れません。

全身の血液が沸騰するような興奮に駆られ、曲が脳に焼き付いて離れなくなりました。

そのまま導かれるように他の曲も聞き、スクフェスにも手を出し、当時放送していたアニメも見ました。

 

ただタイミングが悪く、2期の11~13話だけ見るという歪な状態でした。

 

f:id:Tsukimi334:20181008122448j:plain

 

しかし、それでも感情を激しく揺さぶられました。

それまでの過程をよく知らない筈なのに、それらが想像できてしまって。

見始めてすぐに目の前で展開された砂浜のシーンで、長らく涙を流していない僕の涙腺が久々に緩むのを感じました。

 

そして、2期13話まで見終えた時。

僕は、このコンテンツを”危険”と判断しました。

 

余りにも”良過ぎた”のです。

曲も、話も、キャラクターも。

 

だから、距離を置くことにしました。

 

完全に断とうとすれば、寧ろ反動で余計に深い沼にハマってしまうことが目に見えていたので、スクフェスと曲のみを手元に残し、アニメを遡ったりラジオを聴いたりといった、興味の範囲を広げる行為を自ら封じることにしました。

 

僕が知った時点でもうアニメ2期まで展開されている状態、つまり、遡ろうと思えば大いに遡れる状態が目の前にありました。

しかも、当時東京に住んでいたため、ハマろうと思えばいくらでもはまり込むことが出来る環境だったのです。

 

しかし、当時の僕は就職活動がそろそろ本格化する、というタイミングに身を置いていました。

ここでこの底の見えないコンテンツに夢中になったら。

自分に備わった自制心など、ハナから当てにしていません。

 

下手をすれば人生を捨てかねないと、本気で考えました。

それくらい、僕にとって魅力的なコンテンツだったのです、ラブライブは。

 

また、間違いなくこのコンテンツは百合文化の発展する土壌でした。

これはもう、当然です。そういうものです。

 

しかし、コンテンツは好きだけど二次創作のジャンルが好きになれないーーこれが、少なくとも僕にとって辛い事であることに代わりはありません。

その不一致感に頭を悩ませている暇など、就活を控えた僕には存在しませんでした。

 

だから、ただ距離を置く他無かったのです。

これらの問題に正面から取り組む時間も精神的余裕もなかった僕には。

 

しかし、皮肉にも辛い就活の最中に僕の心を照らしてくれたのはμ’sでした。

移動中にするスクフェスが。そこで聴いた曲たちが。

磨耗していく日々の中で癒しとなっていました。

 

不思議と、μ’sの曲、声、姿でないと満たされない”何か”がありました。

そうやって就職活動を進める中で、僕はどんどんμ’sのことが好きになっていきました。

 

単に可愛いアニメキャラ、という認識から、歌や笑顔で自分を励ましてくれる9つの人格として、敬意と愛情を感じるようになりました。

 

 

 

 

 

🌒

 

 

 

 

 

時は流れ、9月。

就職活動に決着をつけ、晴れて自由の身となった僕は、μ’sとどう向き合うべきか悩んでいました。

今までは就職活動を理由に目を逸らしてきましたが、その就職活動はもう終わってしまった。

これまでのように距離を置いて楽しむべきか。

これまでより近づいて、抱えている苦手意識ごと向き合って見るか。

 

これは、愚問でした。

最初から答えは決まっていたのです。

就職活動を通して何度もその姿と声に支えられ、すっかり好きになってしまっていたのだから。

いい加減向き合おうと決めました。

 

f:id:Tsukimi334:20181008122824j:plain

 

そして、9月のある平日の午前中。

がら空きの映画館で、僕は映画版を見ました。

 

見終えたとき、想像していたよりずっと素直に感動し、楽しかったと思っている自分がいました。

実は、見る直前まで僕には一つ不安がありました。

それは、一度踏み込んだら自分の一番大事な根幹の部分まで変わってしまうのではないか、という不安です。

 

最初に出会った時の衝撃が、あの自分の全てを塗りつぶしてしまうような魅了の波が、僕にはある種の恐怖だったのです。

このまま、洗脳されるみたいにして自分の好みや性格まで塗りつぶされはしないか、という不安がありました。

 

しかし、それは杞憂でした。

寧ろ、見る前よりも自分がハッキリしている感覚すらありました。

 

そこで僕はようやく、自分がμ'sを酷く過小評価していたのだと理解しました。

初めて正面から見たμ’sは、好きと苦手が入り混じったややこしい精神状態の自分であろうと、実に容易に受け入れてくれたのです。

 

その日から、僕は「ラブライブが好き」という事を疑わなくなりました。

確かに、百合文化を好む多くのファンとは相容れないだろうけど、それでも一握りの少数派として、ラブライブを好きでいて良いのだと。

 

考えてみれば、二次創作は単に肌に合わないものを避ければ良いだけの話で、そのスタンスは今までと何ら変わりなく。

何なら、ひたすら公式からの供給のみを受け取っていればいいや、などと、気楽に考えるようになりました。

 

 

 

 

 

🌓

 

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!!

 

f:id:Tsukimi334:20181008124203j:plain

 

時が経って、サンシャインのアニメ版の放映が発表されます。

実は、僕は当初Aqoursに関しては「遠くから応援している」くらいのスタンスで見守るつもりでいたのですが、色々な出会いがあり、アニメ第1話が放映される頃にはすっかりAqoursに夢中でした。

 

サンシャインのアニメが始まる前、μ’sのアニメ版をリアルタイムで追っていなかったこともあり、「百合が苦手でも大丈夫だろうか」と少しだけ不安を抱えていました。

しかし、始まってしまえばそれはやはり杞憂であり、何とも楽しく、熱く、素敵な物語がそこにはありました。

「やっぱり、僕でも楽しめるんだ」「僕もラブライブ好きで良いんだ」と、安心したことを覚えています。

 

f:id:Tsukimi334:20181008124638p:plain

 

その後、友人S氏の強い押しに負けてLVで1stライブを見て、生まれて初めて心の底から「何が起きようとこのコンテンツだけは最後まで見届ける」と決意を固め。

その直後、どん底に落ちた精神をAqoursに救って貰ったりしました。

 

behind-moon.hatenablog.com

 

以前の記事でも書きましたが、その過程で僕は沢山の10人目に支えてもらいました。

支えてくれた彼らは、大抵がss、ブログ、絵などをネット上にアップする”作り手”が多かったように思います。

仮にそうでなかったとしても、ラブライブの二次創作を熱烈に好んでいる方が多かったです。

 

ーーーー当然、百合を含んだ。

 

 

 

 

 

🌒

 

 

 

 

 

分かっていましたし、知っていました。

そういうものだと。

 

登場人物が全員女子高生で、9人でアイドル活動をして、絆を深めていく内容なら。

二次創作が”そう”なることも、作品を好きな人たちが”それ”を好むのも。

 

当然のことであって、分かり切っていたことでした。

 

だから。だから距離を置くことで対処しようとしたのに。

なのに。

 

「仲良くなりたい」と、思ってしまった。

 

仲良くなる?彼らが特別好いているジャンルを避けている癖に?

それは、到底無理な話であり、我儘が過ぎると分かっています。

 

それでも。それでも、発言を見る度に、支えられる度に、「話してみたい」「仲良くなりたい」という気持ちは湧いてきて。

その度にもう一つの感情が顔を出しているのを感じました。

 

「何故、自分の思い通りにならないのか」という苛立ち。

感情という名の、化物。

 

 

 

 

 

 

🌑

 

 

 

 

 

”化物”

 

その化物は、僕を「こんなジャンル無ければ良かったのに」という思考に誘導してきます。

「百合なんてものがあるから苦しむ羽目になる」「あんなもの、無くなれば良いと思わないか?」と、語りかけてきます。

 

そして僕は、この化物がこの世で一番、嫌いでした。

単純に、何かから自由を奪うものの存在が大嫌いでした。

 

こと、創作の自由を奪う者は心底嫌いでした。

吐き気を催すほどに。

 

それが、自分の心から生まれてくる。

 

よりによって、同じものが好きな、仲良くなりたいと思っている人を見ている時に。

 

放っておけば、化物は誹謗中傷の言葉として僕を通り抜け、口から勢い良く飛び出し、彼らを傷付けることでしょう。

 

でも、それだけは絶対に許容できませんでした。

大嫌いな化物の言いなりに動くのも、仲良くなりたいと感じた彼らを害するのも。

 

だから、とにかく化物が外に出ないよう工夫しました。

具体的には、ヤツを自虐へと変換して対処しました。

 

「思い通りにならないと知って、このコンテンツに踏み込んだのは僕だ」

「苦手な癖に、それを弁えずに彼らに近付こうとしたのも、僕だ」

「つまり、悪いのは僕だ」

 

思考をこのルートで巡らせれば、化物は自虐と化して僕を抉り、それで一旦落ち着きます。

しかし当然、この繰り返しでは心が持ちません。

 

何か、手はないかと、探していました。

自分が自分のまま、百合というジャンルを受け入れる手段を。

 

 

 

 

 

🌑

 

 

 

 

 

やっぱり、救ってくれたのは

 

手がかりを探す中で、一つ思い出すことがありました。

 

昨年の夏、盆休みに帰省したときの話です。

父、母、姉が揃ってサンシャインのアニメを見てみたいと言ってきました。

意外に思いましたが、折角興味を持ってくれたなら、と思い、その頃から断続的にブルーレイを鑑賞するようになりました。

 

f:id:Tsukimi334:20181008135031j:plain

 

見た家族の反応は、意外な程に好意的でした。

少なくとも、余りサブカルチャーに縁のない僕の家族にラブライブは”通用”しました。

 

その際、最もラブライブに程遠そうな父(70代)に対し、「何でそんなに好意的に捉えてくれたの?」と聞いた覚えがあります。

 

父は、こう答えました。

「お前やS君がそれだけ熱中しているということは、まず悪いものではないと思った。完全に理解できなくとも、お前達を夢中にさせる”何か”があるのだろうと考えた」

「(実際に見てみて)最初は女の子がキャーキャー言っているだけかと思ったが、時折あの作風からは到底想像できない、普遍的で大切なテーマに関して言及していて、驚かされた」

「正直、理解しきれない部分もあったし、まだメンバーの顔と名前が一致しないところもあるが、大切な部分はしっかり伝わって来た。お前がこういう作品を”良い”と評せる人間に育ったと分かって安心した」

 

当時、僕は精神病の真っ最中であった為、どちらかと言えば自己を肯定されたことに感動していましたが、今思い返すと

「お前やS君がそれだけ熱中しているということは、まず悪いものではないと思った」

これが、一つの手がかりのように思えました。

 

これは、僕に当てはめるなら

「あれだけ信頼できる人たちが好いているということは、まず悪いものではない」

と変換できます。

 

そして、

「女性同士の恋愛描写の良さに関して理解が示せずとも、もっと根本的な所で理解できる部分があるのではないか」

と考えました。

 

 

 

🌒

 

 

 

そこまで思考が進んだとき、その夏の日に見た1期4話と1期5話が脳裏を過ぎりました。

 

f:id:Tsukimi334:20181008125631j:plain

 

1期4話のルビィちゃんを見て、「それは考えすぎだろう」「好き嫌いは君の自由で良いじゃないか」と思っている自分がいました。

 

さて。「百合を完全に理解しなければ彼らとは仲良く出来ない」という発想は、それに近い思い込みではなかったでしょうか?

 

f:id:Tsukimi334:20181008125650j:plain

 

1期5話にて、千歌は善子の捨てようとした「ヨハネ」という個性を肯定します。

しかし、別に千歌は生配信の熱狂的なファンになった訳でも、ゴシック調のファッションを真似るようになった訳でもありません。

それでも2人は、間違いなく”仲間”であり”友達”なのです。

 

ならば、自分にもそれが出来るのではないのか、と考えるようになりました。

 

 

 

🌓

 

 

 

そう。結局、ここでも僕はラブライブに救われたのです。

 

その頃から、僕は徐々に百合というジャンルに対して距離を詰めて行きました。

百合メインで活動している絵師さんであっても、その絵柄を美しいと思えば迷わずフォローするようになりました。

ssや漫画を見て「悪くないな」と思えたなら、積極的にふぁぼを押すようにしました。

 

そうやって、自分の呼吸できる範囲で肯定を繰り返しました。

少しずつ、自分の感性と流れてくる作品をすり合わせていく作業。

 

それは、少し怖くて、でもどこか愉快な新鮮さを感じる行為でした。

まるで、少ない荷物で見知らぬ国を旅しているような、そんな感覚。

 

そしてある日、ふと気づきます。

化物がもう、出てこなくなったことに。

僕はようやく、自分の内に棲んでいた化物を殺し切ったのだということに。

 

 

 

 

 

🌔

 

 

 

 

 

先日、『「好き」が伝わるという感想の是非』について考える機会がありました。

その話題の本筋からはズレてしまいますが、僕はつい、この長い一人相撲の顛末を想起してしまいました。

 

僕が「悪くない」と感じることができた作品たちは皆、その人の「好き」がたくさん伝わってきたのです。

ああ、この子のことが。この子とこの子のことが。こういうシチュエーションが。こういう関係性が。この人は大好きなんだと。

 

それを足がかりに、僕は肯定できました。

その「好き」は理解できる。

その子のそういう仕草が「好き」なのは理解できる。

ジャンルとしての外面の要素を理解できない。であれば、その内側に水脈のように流れるその「好き」という気持ちこそが唯一にして最大の理解のきっかけだったのです。

 

だから僕は、二次創作で今まさに「好き」を発信している人を尊敬します。

それを熱烈に愛する人たちも同様に。

 

f:id:Tsukimi334:20181008125918j:plain

 

そして願わくは、これからもその「好き」を、自由に伸び伸びと発信してほしいと切に願います。

結局、あの化物に止めを刺した最後の一刺しは、あなたたちから受け取った「好き」という気持ちだったのだから。

 

未だ、百合を理解しきれてはいないけれど。

僕はあくまで僕のまま、理解できる部分を探し続けます。

 

いつか僕も、ssの一つでも投稿してみようか、などと思いつつ。

今回はここで、筆を置かせて頂きます。

 

愚にもつかない一人語り。

お付き合い頂き、本当にありがとうございました。

 

 

 

 

 

🌕